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「女性初の○○」を超えて、組織の「ど真ん中」で働き続けるためには?

  • 川口敦子
  • 4月25日
  • 読了時間: 14分

更新日:4月27日





報道現場で、子育てと仕事の両立を目指して日々奮闘する皆さんに、「そこんとこどう?」を聞く企画「ウチらの子育て」です!この回では、「女性初」を超えて、組織の「ど真ん中」で働きたいと願う女性記者3人の話を聞きました。3人の経験と知恵が、読んでくださったあなたの参考になれば幸いです。(聞き手・川口敦子=フリーランス)

【この回では、次の皆さんの記事を読むことができます】 (記事はこちら)をクリックすると、それぞれの記者の記事に飛びます。スクロールしていって、全員の記事を通して読むことも可能です。


加藤さゆりさん(関西テレビ)
加藤さゆりさん(関西テレビ)

「初めてづくし」のキャリアを歩んできました。ロールモデルは一つではないから、後輩には、自分の好きなことを細く長く続けてほしい。

加藤さんの記事はこちら (プロフィール) 1983年生まれ。2006年関西テレビ入社。大阪府警・府政担当などを経て、2013年から3年間FNNベルリン支局で特派員。帰国後は神戸支局長に。2019年に長女、2020年に次女を出産。2022年から報道解説デスクとして取材をしながら自社番組に出演。第1回日韓女性記者フォーラム日本側代表。



印南志帆さん(東洋経済新報社)

後輩たちが子育てをしようと思うときに仕事面で何かを諦めることがないように、自分自身は多少強がってでも、「組織のど真ん中」にいたいと考えています。 印南さんの記事はこちら (プロフィール)

1990年生まれ。2015年に東洋経済新報社に入社し、流通小売業界、電機業界などの担当記者などを経て、2019年から『週刊東洋経済』の編集チームで勤務。2022年1月に長男を出産し、同3月に職場復帰。2024年5月に巻頭特集「女性を伸ばす会社、潰す会社」を担当。




外山薫さん(テレビ朝日)
外山薫さん(テレビ朝日)

経済部記者として男社会に飛び込んでいき、20代後半は仕事に没頭。「自分の世界を広げないと」と一念発起し、30代でニューヨーク支局の特派員になりました。 外山さんの記事はこちら (プロフィール)

1980年生まれ。2003年テレビ朝日入社、夕方ニュース番組ディレクターを経て、経済部記者に。財務省、日銀、流通などを担当。2011年~2013年、ニューヨーク支局特派員。帰国後、2015年に長男を、2017年に長女を出産。2017年にABEMAニュースに異動。





加藤さゆりさん 関西テレビ  「初めてづくし」のキャリアを歩んできました。ロールモデルは一つではないから、後輩には、自分の好きなことを細く長く続けてほしい。



加藤さゆりさん(加藤さん提供)
加藤さゆりさん(加藤さん提供)

会社組織のなかで、私は「初めてづくし」のキャリアを歩んできました。2006年に関西テレビに入社後、報道記者として大阪府庁や大阪府警などを担当し、2013年から3年間は、FNNの関西テレビ海外特派員としてドイツ・ベルリンに「女性初」の海外赴任をしました。帰国後の2019年と2020年に2人の子どもを出産して職場に復帰し、2023年から夕方のニュース番組『newsランナー』で「女性初」の解説デスクになり、現在に至っています。

これまでにも、周囲で子育てをしながら主要なポジションを目指そうとした女性の先輩はいらっしゃったのですが、10年前は「マミートラック」が歴然とあった時代でした。先輩方のなかには「子どもが小さいうちは子育てを優先したい」という方もいらっしゃったかもしれません。

 ですが「ニュースの現場にいたい」という思いと能力がある女性であっても、育休からの復帰後には報道以外の部署に配置されるなど、後輩の自分から見て、適材適所の配置だったとは言いがたいケースも散見されました。

 結局、私の15期ほど上までの女性の先輩は、異動によって、今では記者職に残っていません。男性ばかりの「マッチョな文化」のなかで制作されたニュース番組が、子育て世代や若者世代の関心やニーズをとらえるものになってきたのか疑問に思うところもあり、私としては、なんとかして「女性ゼロ」の15年間の空白を少しでも埋めようと奮闘しているところです。


加藤さんと長女と次女、2025年3月、加藤さん提供(一部画像を処理しています)
加藤さんと長女と次女、2025年3月、加藤さん提供(一部画像を処理しています)

そんな私には、とても心強い大先輩がいます。関西テレビで「女性初の報道番組部長」となった、現在は報道情報局報道センター長の柴谷真理子さんです。柴谷さんは、犯罪被害者の家族やハンセン病訴訟などを取材し、優れたドキュメンタリー番組を制作するディレクターとして長く活躍されており、私とは10期以上離れていますが、いつも後輩の女性記者を励まし、育てようとしてくれています。  私に「女性初」の解説デスクの話が持ち上がったときにも、「女性の視点で解説する人が必要だよ」と背中を押してくれました。当時、私は40歳。もう一人の解説デスクは50代半ばの男性で、最初は、経験の少ない自分が15歳のアドバンテージを挽回できるのかどうかと悩み、「まだ早いのではないか」と感じていたのですが、会社が「年齢的に解説デスクには早いけれど、取材経験を積みながら同時進行でもできるようバックアップするから」という姿勢だったこともあり、最終的には「これはチャンスだ」と決断しました。 関西テレビの解説デスクは週に2回、ニュース番組と情報番組の中で、注目のニュースを解説する役回りを務めます。決まった持ち場はありませんので、普段の取材先は大阪・関西万博の関係者や万博会場、関西を地元とする議員、国会議員、グリ下の若者支援団体から百貨店の展示会まで多岐に渡ります。国政政党の代表でもある大阪府知事のぶら下がりも時々のぞきに行っています。

自分自身のライフワークの1つとして、困難な問題を抱える女性にまつわる取材に取り組んでいます。望まぬ妊娠に悩み、誰にも相談できず、病院を受診しないまま孤立出産する女性、支援団体などの力を借りて出産はできても、その後の自立に立ちはだかる経済的な問題など、困難を抱える女性が直面する問題は本当に複雑です。 生後間もない赤ちゃんが遺棄されてしまう事件を報じる際には、原稿の最後に必ず、支援団体への相談窓口をお知らせするようにしています。以前、未受診で出産したという女性を取材した際、彼女が妊娠中にたまたま関西テレビのニュースを目にして相談センターに駆け込んだという話をしてくれました。しつこくお伝えしてきた甲斐があったと感じた瞬間でした。また最近では、性暴力の被害に遭った女性を支援するワンストップ救援センター「大阪SACHICO」が存続の危機に見舞われた問題について取材し、番組で詳細をモニター解説しました。

解説デスクになって2年、まだまだ知識が追い付かず、共演者さんとの“クロストーク”も慣れませんが、すべてのニュースに目を光らせ、独自の目線で解説できるように日々取材と勉強を続けています。

2006年に入社した私は、まもなく勤続20年を迎えます。10年前に比べると、子育てと仕事の両立について会社の理解は進んできましたし、後輩の女性記者の数もとても多くなってきました。私自身は「悩んだらやってみる」タイプで、後輩たちには、子育てしながらでも仕事は続けられるというビジョンを持ってほしいなと思っています。

ただ一方で、後輩の女性記者たちと話してみると、一人ひとりにさまざまな考えがあり、彼女たちにとってのロールモデルは一つだけではないことを痛感します。「子どもは産まずにキャリアを積みたい」「出産してもバリバリ働きたい」「子育てをしながら無理なく働きたい」など、人生を自分らしく生きるための道は複数あります。後輩たちが自分の好きなことを細く長く続けることができるように、私なりにサポートできることがあればいいなと思う昨今です。



印南志帆さん 東洋経済新報社

 後輩たちが子育てをしようと思うときに仕事面で何かを諦めることがないように、自分自身は多少強がってでも、「組織のど真ん中」にいたいと考えています。



印南志帆さん(2024年5月29日、東京都中央区で川口敦子撮影)
印南志帆さん(2024年5月29日、東京都中央区で川口敦子撮影)

 東洋経済新報社は、雑誌事業や書籍事業、データベース事業などを展開していますが、私の所属する東洋経済編集部は、オンライン記事に加えて、雑紙『週刊東洋経済』を出しています。各号に巻頭特集があり、編集者は数カ月おきに1つの特集を作り、校了期間はそれなりに長時間労働が必要になるという特徴があります。そんな事情があってか、これまで週刊誌の編集チームでは育児をしながら働く女性はおらず、たぶん私が初めてのケースだったと思います。 上司にとっても、編集部員の妊娠や出産への対処は不慣れなことだと推察されましたので、私は出産の前から自分で申し出て上司とコミュニケーションを取り、自分が出産後にどういう仕事をして、どういうキャリアを積んでいきたいのか、思っていることを伝えました。夫が研究職で夕方の時間の融通は付けやすく保育園の迎えに行けるため、私は毎日夕方に帰らなくてもいいこと、だから編集の仕事を出産後もやらせてくださいという伝え方をしたのを覚えています。 2022年1月に出産し、同年3月に職場に復帰してから数カ月後、希望通りに出産前と同じ週刊誌の編集チームで仕事をさせてもらえることになりました。うちの雑誌は、基本は2人ほどのチーム制で作ります。二人三脚で特集を作る相方の編集者とうまく調整を進めていくことが、とても重要になります。復帰後、最初に相方になった男性編集者は父親でもあったことから、こちらから一つ一つ説明しなくても「この月齢の赤ちゃんはだいたいこんな感じ」と分かってくれたのがとても有り難かったです。 その後、相方の編集者が交代したときには、最初にわが家の情報を開示し、子どもを寝かしつけるまでの夜の時間帯などメールの返信がすぐにはできない時間帯があることなどを説明しました。その男性編集者に子育ての経験はありませんでしたが、こちらが説明したことを仕事の運用に反映させてくれて、感謝の念でいっぱいです。

メディアに限らず、仕事がハードな組織では往々にして、働き方に制約が生じがちな子育て中の女性が「組織からはみ出した人」のように扱われることもあるように感じますが、私自身は、自分のことを「はみ出した存在」とは、意識的に捉えないようにしています。もちろん育児のためにできないことが生じ、サポートしてもらったときに感謝の言葉を伝えますし、負担を掛けてしまったときには「申し訳ないです」と口に出して伝えていますが、必要以上に「子どもがいてごめんなさい」という低姿勢で仕事に臨まないようにしたい。そういう人を組織から「はみ出した存在」として特別視するのではなく、One of usであってほしいと願うからです。


 いま、記者や編集者が所属する編集局の男女比は20代から40代前半でおよそ2対1と女性が増え、エース級の20〜30代の男性記者が育休を長く取るなど、子育てを巡る若手の意識には変化も見られます。そんな状況下で、私が「子どもがいてごめんなさい」というポーズを示し続けることは、後に続く後輩たちのためにはなりません。後輩たちが出産や子育てをしようと思うとき、仕事面で何かを諦めることがないように、自分自身は「育児で働き方に制約はあります。でも、できることはやります、やらせてください!」というスタンスでいます。多少無理をしてでも、組織の周縁ではなく「ど真ん中」にいる、通常メンバーの一人である、という顔をしていたいと考えています。



印南志帆さん(2024年5月29日、東京都中央区で 川口敦子撮影)
印南志帆さん(2024年5月29日、東京都中央区で 川口敦子撮影)

外山薫さん テレビ朝日

経済部記者として男社会に飛び込んでいき、20代後半は仕事に没頭。「自分の世界を広げないと」と一念発起し、30代でニューヨーク支局の特派員になりました。


 外山薫さん(2025年2月6日、東京都港区で川口敦子撮影)
 外山薫さん(2025年2月6日、東京都港区で川口敦子撮影)

私がテレビ朝日に入社してから最初のキャリアは、夕方のニュース番組「スーパーJチャンネル」のアシスタントディレクターとして始まりました。この現場には女性のディレクターが複数いて、私は育休明けの先輩とペアを組みましたが、この先輩が「17時の女王」というニックネームで呼ばれていて。番組で一番最初に流すVTRを作ったら、子どものお迎えのために職場を出る姿は、新人ながら「こんな柔軟な働き方があるのか」と印象に残りました。 入社3年目で経済部記者になってからは、男社会に飛び込んでいく形になりました。在京民放の記者は、基本的には一人でクラブを担当します。私は財務省と金融庁の担当になったのですが、まったく知識がない状態で財務大臣の会見に行くことになり、そのデビュー戦は、自分で振り返って言うのもなんですが「最悪」でした。会見で大臣や記者が何を話しているのかすら分からず、質問は下手だし、最初は「役所のお作法が分かっていない、変な女が来た」と、とても警戒されました。


ところが、私が正直に「記者歴もない中、一人で来て、何も分からなくて」と打ち明けたら、あまりに珍しい存在だったのか、財研(財務省を取材する報道各社による記者クラブ「財政研究会」の略称)の他社の男性記者たちが、いろいろと教えてくれました。当時の財研も男社会でしたが、取材相手の財務省も相当な男社会。それでも、こちらが少し勉強して「これが分からない」と聞くと、徐々に答えてくれるようになりました。  男社会で受け入れてもらえるようになるにつれて、私は「『おじさん』の中に『娘っこ』が一人いる」という構図に居心地の良さすら感じるようになりましたが、数年後にはこれを反省することになります。私の後に女性の後輩記者が入ってくるようになり、必ずしも私のやり方が正しいわけではないと思い知ったからです。 今振り返れば当たり前のことではありますが、後輩の女性記者の中には、夜の飲み会を「楽しくない」と感じる人もいました。当初、私はそれに気が付かず、「どれだけ飲み会を入れるかが勝負だよ」と無神経な言葉をかけてしまったのですが、後輩の表情を見て、そのやり方が「普通」ではないことにやっと気が付きました。 さらに、別の後輩の女性記者が妊娠して、夜回りや飲み会に行かなくなりました。おなかが徐々に大きくなっていく彼女の姿を見て、「そうか。私のライフイベントでも、そういうことが起こりうるんだ」と気付き、「夜回りや飲み会に頼らない手段を開拓しなくてはならない」と強く感じました。 民放の経済部の規模は大きくありませんから、ライブドアによるニッポン放送買収騒動やJALの破綻といったビッグニュースがあると、経済部の大半の記者は夜回りや朝回り、張り番を担うことになります。取材に駆け回る日々は楽しかった一方で、プレッシャーもあり、心臓が太い針のようなもので刺されたように苦しくなったことが何度かありました。疲労が蓄積しすぎて、肋間神経痛になっていたのです。また、「女性記者あるある」ですが、夜回りや朝回り、張り番の間はトイレに行くのが難しく、膀胱炎になって血尿が出たこともしばしば(苦笑)。20代後半は「こんな働き方で、長く続けられるのかな」とうっすら思いつつも、仕事に没頭していました。 そんなときに、とある海外ファンドの買収について、他社の記者が英語で取材している姿を見て、「私にはそういうスキルがない」と衝撃を受けました。「このままではいけない。自分の世界を広げないと」と一念発起し、海外特派員の希望を出したところ、体力のあるところを買われたのか、30代でニューヨーク支局の特派員に転勤することになりました。 ただ、その時点で、私の語学力は及第点にも程遠いレベルでした。同時期にワシントン支局長として赴任予定の女性の先輩からは、「外山、特派員は取材や記事、リポート、安全管理、車の運転などの全てを自分でできる『完成形』でなければ、やっていけない」と諭されました。語学ができないことは、命に関わること。そこからは、毎日午前7時からマンツーマンの英会話スクールに通い、授業が終わったらすぐに出勤する日々を送り、赴任先でも英語の家庭教師を雇って、必死に勉強を続けました。 2011年から2013年、34歳になるまで過ごしたニューヨークでは、いつ、どこにでも取材に行けるよう、常にパスポートを持ち歩いていました。竜巻が発生すると、陸路で4時間かけて発生現場に向かい、家屋が吹き飛んだ様子を中継しました。ゼネラル・モーターズ(GM)が破綻したときには、「何はともあれ」とデトロイトに行ったものの、到着したのは夜中に近い時間。「こんな時間に外で撮影するのは危険が伴う」と思ったのですが、それでも日本のニュース番組用に、一瞬だけ外に出てリポートしました。 取材分野も経済ニュースに留まらず、国連取材などの外交政治、事件など社会系、ダルビッシュ有選手のMLBデビューといったスポーツ系など幅広くカバーし、早回しの「倍速」のようなスピード感で場数を積みました。私が赴任した時期のアメリカには他社も含めて複数の日本人の女性特派員がいて、取材現場に女性がいることが「特別なこと」ではありませんでした。夫を日本に残してお子さん連れで赴任し、活躍している先輩記者も当時2人いました。 たくさんの先輩方が「女性初の〇〇」を超えて、道を作ってくれたからこそ次世代が育ちました。次にバトンを渡された私としては、「超人ではない普通の人」が働くことができる環境が整い、それを周りが「お互いに補っていこう」と伴走していく空気感を作っていくことが大事だと思っています。



外山薫さん(2025年2月6日、東京都港区で川口敦子撮影)
外山薫さん(2025年2月6日、東京都港区で川口敦子撮影)

外山さんの記事は、下記の回でも読むことができます。 あなたの「保活」はどうだった?通ってみて、お子さんの様子は?

 
 
 

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