【6/10更新】子どもの急病のとき、自分が病気になったとき、あなたはどうやって乗り越えた?
- 川口敦子
- 5月27日
- 読了時間: 14分
更新日:6月10日

報道現場で、子育てと仕事の両立を目指して日々奮闘する皆さんに、「そこんとこどう?」を聞く企画「ウチらの子育て」です!この回では、子どもが急病のとき、そして自分が病気になったときに、どうやって乗り越えたかを聞きました。それぞれの経験と知恵が、読んでくださったあなたの参考になれば幸いです。(聞き手・川口敦子=フリーランス)
追記:2025年6月10日、記事を追記しました。
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![]() | 家族がコロナに....息子にパソコンのキーボードをたたかれながら編集する「カオスな状態」を経験しました。 (印南さんの記事はこちら) (プロフィール) 1990年生まれ。2015年に東洋経済新報社に入社し、流通小売業界、電機業界などの担当記者などを経て、2019年から『週刊東洋経済』の編集チームで勤務。2022年1月に長男を出産し、同3月に職場復帰。2024年5月に巻頭特集「女性を伸ばす会社、潰す会社」を担当。 |
![]() | 子どもの急病時にどう段取りを組むか、これまでの記者経験が生きています。 (プロフィール) 1992年生まれ。2017年、読売新聞大阪本社に入社。松山支局、今治通信部を経て、2023年から社会部枚方支局。2024年9月から社会部青灯(交通)担当。2022年7月、長男の誕生に伴い、2週間の育休を取得。 |
![]() | 病院を自分で調べて探し当て、交渉して治療してもらう。自分が病気になった状況でも、取材と同じことをしている。記者魂というか、記者でよかったです。 (外山さんの記事はこちら) (プロフィール) 1980年生まれ。2003年テレビ朝日入社、夕方ニュース番組ディレクターを経て、経済部記者に。財務省、日銀、流通などを担当。2011年~2013年、ニューヨーク支局特派員。帰国後、2015年に長男を、2017年に長女を出産。2017年にABEMAニュースに異動。 |
印南志帆さん 東洋経済新報社 家族がコロナに....息子にパソコンのキーボードをたたかれながら編集する「カオスな状態」を経験しました。

子どもの病気をめぐってこれまでに一番危機的だったのは、自身が編集者として働く『週刊東洋経済』の校了を控えた2022年8月に、夫と長男が新型コロナウイルスに感染し、自宅で隔離生活になったときのことです。 家族がコロナでも締め切りはやってくるわけで、しかも感染症ゆえにベビーシッターや親に保育を頼むこともできません。私は息子にパソコンのキーボードをたたかれながら取材をし、記事を編集するという、「カオスな状態」を経験しました(苦笑)。子どもが足元でわちゃわちゃと絡んでくるなかで、やっとアポイントメントを取れた政治家にオンラインで取材したのですが、何事もなく取材が終わるかどうか、ひやひやした記憶があります。 当時、息子は0歳で聞き分けも何もないので仕方ないのですが、小さい子どもがいる状況での在宅勤務は本当に難しいと痛感しました。リモートワークのイメージ図として、にこやかな表情でパソコンに向かうお母さんと一緒にいる子どもの姿が描かれがちですが、私にとって、そのときの現実はそんなものではなく、家庭と仕事は「混ぜるな、危険」と思ったものです。子どもにとっても、親が家にいるのにかまってもらえないのは不快なもの。この経験をしてからは 、子どもが家にいるときに仕事をせざるを得ない場合は近隣のワークブースを予約するなど、場所を分けるようにしています。
これとはまた別に、2023年にはまだ特集のための原稿を書き終わっていない大詰めのタイミングで、子どもが肺炎で入院したこともありました。私は面会時間の合間に病院の近くのカフェで原稿を書いたのですが、会社に行くことができません。そこで、一緒に記事を作っていた相方の編集者が、会社での作業を一手に引き受けてくれたのですが、とても負担をかけてしまいました。
このときに教訓として学んだのは、何か異変が起こったときに「なるべく自分で何とかしよう」とあがくほど事態は前に進まないということ。できるだけ早い段階で上司に状況を報告し、代替要員の確保などのサポート体制を構築してもらうことが、組織全体にとっては重要なのだということを痛感しました。いまは、保育園で感染症が流行っていたら部長や相方の編集者にチャットでその状況を伝えるなど、たとえ「杞憂」に終わってもこまめに職場と連絡を取るようにしています。
悩ましいのは、子どもの発熱で保育園からのお迎え要請があったときの対応です。もちろんすぐに夫婦の都合のいいほうが保育園に駆けつけていますが、夫の仕事の性質上、急なキャンセルが難しい場合もあります。私の場合も、取材は相手と予定を調整して初めて成立するもの。たとえば企業の社長の取材を予定していたとして、ドタキャンしたら次に社長の時間をいただける機会が来るかはわかりません。親としての自分、記者としての自分との間で葛藤が生じ、そうした思いを抱くこと自体「親として失格なのでは?」と自己嫌悪に陥ります。
自治体には病児保育がありますが、どこもすぐに定員が埋まってしまいます。病児保育の定員に空きがあるかどうかを問い合わせると、「キャンセルが出たら、当日の朝に連絡します」と言われることもしばしばで、私はこれを「人気アイドルのライブのキャンセル待ち状態」と表現していますが、非常に不確実性が高いのです。
そういうときに、ベビーシッターさんに依頼するかどうかは迷いどころです。子どもは人見知りしやすいタイプで、初見の人と仲良くなるのに時間がかかります。自分で育児をしてみて、当たり前ですが子どもにも子どもの意思があることが分かり、その意思を尊重していきたいと思うようになりました。今は、無理をいって実家の両親に来てもらうことが多いです。
2歳になった息子(2024年取材時)は、私たち夫婦、保育士さん、私の両親と妹には心を許してくれています。できればあと1、2カ所、子どもが安心できる居場所ができると緊急事態に備えられるかなと思い、地域の方が短時間預かってくれるファミリー・サポート・センター事業の申し込みを検討しているところです。

印南さんの記事は、下記の回でも読むことができます。
「女性初の○○」を超えて、組織の「ど真ん中」で働き続けるためには?
あなたの「保活」はどうだった?通ってみて、お子さんの様子は?
もうちょっと遅くまで残れるかな…。出張どうしよう…。仕事の進め方ってどうしてる?
福永健人さん 読売新聞大阪本社
子どもの急病時にどう段取りを組むか、これまでの記者経験が生きています。

2022年生まれの長男は2歳半を超えてだいぶ熱を出さないようになりましたが、1歳のころにはよく熱を出して、急な対応を迫られることがしばしばありました。特に大変だったのは私が社会部枚方支局に所属していたときで、子どもの急病時には、「3つの選択肢」を組み合わせて日々の暮らしを回していました。当時の私たち家族の「3択」は、①近くの病院が運営している「病児保育」に預ける、②少し離れた場所に住む私の親に看護を頼む、③私または妻が在宅勤務しながら看護する、の3つ。当時のことを少し振り返ってみたいと思います。
息子が1歳のときには、いつ、いきなり子どもが熱を出すかは分からなかったので、妻とは日ごろから、それぞれが息子を病院に連れていける曜日を相談して決めていました。ただ妻は自宅から離れた大学院に通っていたため、突発的な出来事があったときにすぐには帰れないこともありました。そこで、保育園から「熱が出ました」などと急に連絡があったときには、支局周辺で取材をしている私が、迎えに行くことが比較的多かった記憶があります。
ただ問題になったのは、急病になった次の日以降の対応でした。熱を出したり、感染症にかかったりしていたことが判明してから、その次の日以降に保育園に行けないことはほぼ確実ですから、次の日以降をどう乗り切るかを考えないといけない。ここで全体の状況を見渡して、段取りを組む必要が生じました。
「3つの選択肢」のうち、まず「第1の選択肢」は自宅から一番近い病院にある病児保育に連絡を入れて空き状況を確認することでした。ですが、この病児保育で預かってもらえる子どもの定員は10人で埋まっていることが多く、空きがあるかどうか、その確率は半々というところ。息子が1歳だった2023年には計10回ほど病児保育をお願いしました。息子は最初、慣れない環境で過ごすということもあり盛大に泣いていましたが、迎えに行ったときには、保育士さんから紙製の手作りのおもちゃをもらってリラックスした表情を見せており、ほっとしたことを覚えています。
ただ病児保育は空いていない時も多いので、次の手を打っておく必要があります。私の場合、幸いなことに両親が1時間ほど離れた場所に住んでおり、父は退職して時間もあったことから、日頃から息子とよく遊んでくれていました。そこで、保育園にも病児保育にも行けないことが分かった時点で、「第2の選択肢」として両親に電話し、来られるようなら日中に来てもらって看護してもらい、夕方に帰宅した妻にバトンタッチするなど、一日の時間帯ごとにリレーのようにつないでいくことも多かったです。こういうときは、綱渡りでした。 突発的な病気でなくとも、保育園で感染症が流行している季節や、息子の体調が少し悪くなりそうかなと用心するときには、事前に私の両親に1週間程度の予定を確認し、「もしかしたら、来週あたりに看護を依頼することもあるかもしれない」と密に連絡を取るようにしていました。もちろん両親に予定があることもありますから、もしそんなときに息子が体調を崩してしまったら、「第3の選択肢」として、私または妻が在宅で看護しながら仕事や勉強をしていました。
子どもの急病時にどう段取りを組むかについては、これまでの記者経験が生きていると思います。皆さんも経験があると思いますが、記者であれば、急に会見や取材が入ることがあるもの。とにかくその段階から動き始め、さまざまな原稿を書くためにやらなければならないことを整理し、それらをつないで原稿にして出していく。こうしたトレーニングを積んできたことが、子育てと仕事を回す生活にも役立ったと感じています。
息子は2歳を過ぎてからご飯もしっかり食べるようになって、めったに熱を出さなくなりました。私の父親に急きょヘルプを頼むこともすっかりなくなり、私たち保護者にも余裕ができてきましたが、急病時の1日を回すのに大変だった経験は、とても貴重なものだったと思います。
福永さんの記事は、下記の回でも読むことができます。
外山薫さん テレビ朝日 病院を自分で調べて探し当て、交渉して治療してもらう。自分が病気になった状況でも、取材と同じことをしている。記者魂というか、記者でよかったです。

私の取り柄は「体が丈夫なこと」で、それがニューヨーク支局特派員にさせてもらった理由なのではないかと思っているのですが、2017年12月、第二子となる長女を出産してからうつ病になり、そこから抜けるまでには紆余曲折がありました。
発端は夜中の授乳でした。37歳で高齢出産し、退院してからは毎晩のように、新生児だった長女が夜中に泣き、私はそのたびに起きて母乳を与え、さらにミルクを作って飲ませていました。当時は、今のように液体ミルクが普及していなかったので、まず消毒済みの哺乳瓶に粉ミルクを入れ、お湯で溶かして冷まし、適温にしてから、赤ちゃんにあげないといけない。私が起きて作業していると、当時2歳の長男が、しばしば物音に気が付いて起きてきました。
「長男を寝不足にしてはいけない」と思い、できればすぐに寝かしつけたいところでしたが、夫は別の部屋に寝ていて、自分一人ではすぐには動けません。夫は当時、仕事の関係で週に何回か日帰りの出張があり、朝4時に出て23時に戻る日々を送っていました。そんな生活をしている人に「夜中に起きて、ミルクを作って」とは言えない。そのとき義母も手伝いに来てくれていたのですが、私は「夜中にわざわざ起きてもらうのは申し訳ない」と思い、一人でやるしかないと思い込んでしまいました。
そうこうしている間に、赤ちゃんが「あ、ちょっと泣きそう」と気配を感じたら、すぐに目が覚めてしまうようになり、上の子の相手をしながら、片手でミルクを作るようになりました。当時は寝ているつもりでも、実質的にはほとんど眠れていなかったと思います。そのうちに気絶するほど疲れているはずなのに、本当に眠れなくなり、最後は赤ちゃんの泣き声が「怖い」と感じるようになりました。
いくつか発症のトリガーがありましたが、長男がノロウイルスに感染し、部屋を分けざるを得なかったときのことも、その一つのきっかけだったように思います。長男がノロウイルスに感染して嘔吐すると、長女にも感染の恐れがありますから、長男とは部屋を分けざるを得ない。ですが長男はさみしいですから、「お母さーん」と私のいる部屋のドアをドンドン叩くわけです。常に寝不足で、長男に対応することもできず、追い立てられていて気が張り詰めた状態でした。
義母が手伝ってくれる期間は当初、「下の子が生後1カ月になるまで」という約束でした。ですが義母が帰る前日には心臓がバクバクしてきて、義母がいない状態で、私だけで子ども2人の面倒をみるのは「無理なんじゃないか」と思いました。
今でも忘れられませんが、義母が帰る日にソファーで赤ちゃんを抱いていたら、まるでソファーが抜け落ちたような感覚に陥って。汗がぶわーっと出てきて金縛りみたいに動けなくなって、義母を大声で呼んで抱っこを代わってもらいました。「もうダメだ、私はダメだ」という気持ちになったことを覚えています。
そこからの私の対応は早かったですね。保健所に自分で電話して「私ダメなので、精神科をどこか紹介してもらえませんか」と話し、教えてもらった精神科のリストの上から順番に電話していきました。そのときは年末で、電話しても「営業時間外です」という自動応答が返ってくるなか、やっと4つ目のクリニックの電話が通じて、「予約がいっぱいなので」と一度は断られましたが、「絶対に無理です。お願いします」と食い下がって。そうしたら診療の予約枠を空けてくれたんです。翌日クリニックに行ったところ、「これは薬を出しましょう」と言われ、「あー、私、(うつ病に)なっちゃったんだ」と思いました。
それでも、子どもの目の前では「いいお母さん」でいたいと思うから、笑顔で接しようとめっちゃ頑張るわけですが、病状はどんどん悪化していって、最終的には「母子分離をしないといけない」ということで入院しました。休養と薬物療法が主な治療方法です。軽い散歩から始まって数時間の帰宅、次は日帰りで帰宅、最後は泊りで帰宅と、徐々にステップを踏み、退院するまでには3カ月ほどかかりました。
その後も紆余曲折がありましたが、日々の生活は何とかできても、「子育てや家事をしながら仕事まで」というフェーズになかなか持って行けない。従来の治療に限界を感じていました。そんなある日、かかりつけの病院の掲示板に「rTMS(反復経頭蓋磁気刺激療法)」という、脳の特定の領域を微量の電気で刺激する療法の治験者を、ある大学病院が募集しているとの案内を見つけました。「治るならなんだってしたい」と思っていたので、自分で電話して、研究主任の医師との面談に至りました。
先方からは、原則毎日施術が必要なrTMSよりも、「ECT=電気けいれん法(全身麻酔をした上で脳通電し人工的にけいれんをおこす治療)」を試しては、と言われました。そこで、この治療を受けられる病院を自分で調べて探し当て、「どうしても受け入れてほしい」と交渉して転院しました。私には効果があり、今は寛解(かんかい、症状がほぼ消失している状態のこと)しました。
情報を調べて探し当て、交渉してと、自分が病気になった状況でも取材と同じことをしている。記者魂というか、記者でよかった(笑)。逆にいうと、私にそういう経験がなかったら…どうなっていたんだ、とも思う。今回、闘病のことを詳細にお話ししたのは、精神疾患の治療などがもっとオープンに語られて他の人の参考になればという思いもあります。
周囲を見渡すと、私よりも過酷な状況でワンオペ育児をしている人がいるのに、なぜ自分には、母親業が十分にできないのかという負い目はあります。それと同時に、私が仕事を続けてきたからこそ、できたこともあるはずだとも思ったりもします。私の根底には「○○ちゃんのママ」ではない、「外山薫」がどっしりとあり、その名前と仕事はひもづいているのです。

外山さんの記事は、下記の回でも読むことができます。 「女性初の○○」を超えて、組織の「ど真ん中」で働き続けるためには? あなたの「保活」はどうだった?通ってみて、お子さんの様子は? 「正直しんどい…」 そんなとき、助けてくれた人とは。








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